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カテゴリー: 一緒に子育て

一緒に子育て 9

自尊感情について その2

前回、不適応行動を起こす子どもや気になる子どもたちの心理的背景に、自尊感情、自己肯定感(自分は存在感がある、人の役に立っている等)が極端に不足していることが多いと指摘しました。

これら子どもたちは、今、現在が不安と不満の気持ちで心がいっぱいです。従いまして、今、勉強すればいいとか、今、頑張れば将来役に立つというような、先のことは考えられませんし、先を見越した建設的な行動はとれません。

よく、大人は、「将来のために、頑張れ」と激励しますが、今現在、心が満たされていない、それどころか不満と不安の気持ちがいっぱいであれば、将来どころではありません。その激励は心ここにあらずで聞いていることでしょう。

また、いじめの加害者側にたつ子どもの中には、日常から自分自身が大事にされていない(すなわち、自己肯定感が不足している)子どももいます。「相手を大事にせんとあかんで。弱い立場の友だちをいたわったりや」と、説教しても、自分が大事にされていない、いたわってもらっていないと、その意味が理解しにくいし、その行動がとれません。

「自分は、大事な家族の一員やんや。みんなから大切にされとるんや。お母ちゃんに好かれとるんや・・・」と、感じてくれるようなメッセージを日常から子どもたちに伝えたいものです。

これらブログに質問、感想がありましたら、「お問い合わせ」から発信してください。

担当 臨床心理士 鈴木隆一(元、スクールカウンセラー)


一緒に子育て 8

自尊感情について  この不足が不適応行動、問題行動の子どもに共通することが多い

過去の保護観察官、また現在保護司で非行臨床の経験がありますが、自尊感情、自己肯定感が極端に不足している事例によく出会います。「俺なんかどうなってもええんや」、「俺なんか生まれてこんかったらよかった」の自暴自棄もあります。そこまで行かなくても、何かにつけて自信なげで、自分が何かするにも人の顔色をうかがう子どもがおります。不登校の子どもにも共通(これだけが原因でないことはもちろんです)する一つです。

自尊感情は自己肯定感と言い換えられます。子どもに自尊感情がないというのは、他者から肯定的に見てもらえていないからです。「あほ、馬鹿、間抜け」と、しょっちゅう言われてはいないでしょうが、苦手なことや他者と比べて劣っていることを指摘されることが重なりますと、自信をなくして当然です。親は、子ども少しでよくしたい思いから、子どものマイナス面を改善したいものですから、プラス面よりマイナス面に目が行きます。

相談場面で、お母さんからのお話をひとしきり聞いたあと、「子どもさんのいい点はどんなところでしょうか、誉めてあげることはありますか」と、伺うことがあります。たいがい「先生、そんなもんありません」と、おっしゃいます。それはそうでしょうね。親から見て気になる点(すなわち、マイナス面)を何とかしたい思いで、相談に来られているわけです。

しかし、子どもは少しでも自尊感情・自己肯定感がないと自らの行動がとれないし、自己治癒力・変容力も働きません。自己肯定感を持てるのは、他者から誉められることが一番です。そこで、先ほどのような質問になるわけです。

子どもが90点、100点でないと親は誉めようとしません。これではなかなかプラスのメッセージが届きません。

私たちは、点数で言えば平均点で生活をしています。いつの場面でも90や100点ではありません。平均点、すなわち50や60点でOKなのです。

普通の点数でOKなのですから、普通に出来たことも誉める対象になるのです。そうすれば、プラスのメッセージ、すなわち誉めることが多くなります。日常生活の中で、「よくできたね、お母さん嬉しいよ」と、言える場面がきっと増えます。


いじめについて その3

新聞の読者投稿欄に、「いじめで死ななくて良かった」が掲載されていました。中学生時代、自殺まで考えたいじめを受けていましたが、思いとどまったのは、ある人の「いじめている人が100%悪い」の一言だったそうです。

以前にも触れましたが、時にはいじめられている側に相応の理由があるかのような発言があります。例えば、「動作が遅い」「声が小さい」等々です。場合によれば「だから、いじめられても仕方がない」と、発信しているようなものです。

私のスクールカウンセラー時代の臨床例ですが、言葉によるいじめで別室登校になっていた中学2年男子生徒がいました。その生徒は、身体的なハンディを持っていました。そのため、特徴的な行動が時々出ていました。その行動を他生徒から揶揄され辛い気持ちになっていたのです。いわゆる言葉によるいじめです。                                その行動は自分の意思に関係ないものなのです。学校では、いつも小さくなっていました。校内を移動するときにも、他生徒から見られないように、また廊下の端を歩いたりと大変気を遣っていました。その生徒と人間関係が出来た頃、その理由を尋ねたところ、「他の生徒に迷惑をかけないようにするため」と、答えました。

自分ではどうにもコントロール出来ない行動を冷やかされたり、おちょくられたりしているにかかわらず、自分が悪いから仕方がないと思っていたのです。どのような経緯で、本人がそのような考えになったのか分かりかねますが、推測できることは、いじめている側が100%悪いと、思えなかったことです。自分が悪いから仕方がないと思っていたのです。

その生徒とは、箱庭療法を媒介にして過ごしてきました。言葉による表現は不十分でしたが、箱庭の作品では、内面を適切に表現してくれました。家族のサポートもあり、不登校になることなく卒業できました。

いじめられても仕方ない、いじめられる側も悪い、というようなことは絶対ないのです。

臨床心理士 鈴木隆一

 

 

 


一緒に子育て 6

いじめについて その2

よく、いじめの被害者でありながら大人に訴えない、遊びを装って笑ってその場をしのぐことがあります。アンケートをとっても「いじめられていない」と答えることもあります。

何で正直に言わないのか疑問です。訴えても効果がない、かえって「ちくった」と更にいじめられるのを恐れているのと、子どもなりに「面子」があるのです。このことはとても大事な視点です。いじめられていることは、自分が弱い立場であることを他者にさらすことになります。本来、弱いととられても表明してもいいわけですが、なかなかそうはいきません。特に「弱いからいじめられるんや、いじめられたらいじめ返せ」と、不可能なことを言われたり、「お前がいつも・・・・やから」と、弱点を指摘されたりした経験を持てば、余計言いにくくなります。

大人でもそうですが、自分の内面や弱い点を他者に表明するのは相当な勇気と相手を選ばなければなりません。

それではどんな相手なら表明しやすいでしょうか?不可能なことを言われたり、欠点を指摘されないことは勿論です。それに加えていじめの事実より、辛かった気持ちを先ず受け止めてあげることが必要です。よくある間違いは、「誰に、どこで、どのように等々」と、事実関係を聞くのでは、本人の訴えたい気持ちかけ離れていきます。

最後に「よく言ってくれて、ありがとう」を、付け加えたいものです。


一緒に子育て 5

マザーリングマザー

ある日帰り温泉での光景でした。30代半ばの父親が幼児2人を連れていました。風呂から上がり、脱衣所で楽しそうに動き回る2人の子どもに服を着せていました。自分も服を着なければならずなかなか大変な作業ですが、微笑ましい姿でした。                      5歳ぐらいの上の子どもが、扇風機の前に行って髪の毛に風を当てていました。たまたま側にいた30歳くらいの男性に風で飛んだ水気が当たったのか、不快な表情をしましたので、慌てて父親は「すみません」と、言いながら子どもをその場所から離しました。             通常これで終わりでしょうが、その男性は「親ならちゃんとしつけておけ」と声を荒げました。

マザーリングマザーとは、子育て中の若い母親に優しく母性的に接し、子育てをサポートする意味です。この場合母親ではなく父親ですが、子育てに奮闘しているのは同じです。      電車の中などで、若い母親に抱かれた赤ちゃんを、年配の女性があやしている場面がよくあります。赤ちゃんもご機嫌ですが、母親も笑顔を見せています。このような光景は当事者ではありませんが、気持ちが和みます。

一昔、二昔前より圧倒的に子育てがしにくい社会です。若い世代の親たちに「しつけが足らん」、というような決まり文句で子育てを非難するのではなく、「子育てがしにくい世の中で、よう頑張ってるね」の気持ちで、大目に見てあげたいものです。


一緒に子育て 4

ストレスフルな社会

7月はじめ、京都で臨床心理士対象の「子育て支援講座」が開催されました。テーマは、「ストレスフルな家庭状況での子育て支援」でした。ストレスフルな家庭とは、被災した家庭や犯罪被害に遭った家庭等のことです。このような家庭では、日常生活のすべてを失ったり、生活の維持さえ困難な状況が想像されます。子育てにあたる親は、精神的安定を欠き不安な状況になっています。子どもは、拠り所とする親のいつもと変わらない安定した様子を見て成長したり、癒やしになるわけですが、このような状況ではそれを望むべくもありません。

このような際だったストレスでなくても、ストレスに満ちあふれているのが現代社会ではないでしょうか。子どもにとれば、学校での勉強、テストの結果、部活、友人関係等々です。

しかし、これらすべてのストレスが問題行動として、顕在化するかというとそうでもありません。子どには、自分で処理する力、自己治癒力が働きます。これらの力は、自分が拠り所とする対象(人)を持っているかどうか、またその人に自分の内面やストレスを話すことで生じます。もちろん子どもの限界を超えるストレスには、間髪を入れず援助しなければなりません。

私たち大人は、子どもの拠り所の対象、依存の対象として存在したいものです。


工作材料をどうぞ

工房のある丹波春日の山には、孟宗竹やヒノキがたくさん生えています。それらが子どもさんの工作の材料になりはしないかと考え、店頭に並べました。親子のふれあいの一つになればと思います。


一緒に子育て 3

大津市の中学校で起こったいじめ事件が、毎日取り上げられています。またかと、いう感じです。関係者の感度の鈍さが今回も気になります。子どもが自殺するということは、もうそれしか選択の余地が残されていなかったからです。そこまでの心理に至ったことを考えると、痛ましさといじらしさを感じます。残された遺族は我慢のならないほどの辛さでしょう。

加害者側の言い逃れとして「遊び」、ということがよくあります。今回もその発言でそれ以上追求しなかったような報道があります。それでは被害者側の生徒にも「君も遊びだったの?」と、なんで聞いてやれなかったのでしょう。加害者側の生徒が居る前で聞いても、本心は言いませんので、別の場所を設定する必要がもちろんあります。被害者側の生徒を「絶対に守るからね」と、いう強い信念で対応しないと、仕返しを恐れて事実を言いません。さらに必要なのは、被害者側の生徒からなにがしかを聞き出したら、疑うことなく「絶対に守る」と、いう約束をしたわけですから、関係者はすぐ行動を起こすことです。                         よく「なんでそんな目に遭わされているのに、先生や親に訴えないのか」と、いう疑問が聞かれますが、過去訴えたのに何もしてもらえなかった。それどころか仕返しをされた経験をよく持っています。

もう一つ大人側の気になる考えとして、今のところ報道はされていませんが、「あの子はあんなんやから、いじめられるても仕方がない」と、いうように被害者側の生徒に責任を転嫁するようなこともあります。そういう風潮が大勢を占めますと、いじめは日常性になります。

私の臨床経験で、中学校時代クラス中から疎外されていた女子生徒が、3年間不登校にならず卒業できたのは「たった一人だったが、いつも自分を気にしてくれ味方になってくれた先生がいたから」と、発言しました。                                        この男子生徒には、そのように感じさせる大人が身近にいなかったのでしょうか。       人は、人によって傷つけられますが、人によって癒やされます。


一緒に子育て

7月6,7日の2日間、七夕飾り用に丹波春日の山から小ぶりの笹を約30本持ち帰り、店頭に置きました.自由にお持ち帰りくださいのメッセージを付けました。残ったのが5,6本でした。子育て中の若いお母さんや、孫のためと年配の方もおられました。

子育て関連の講演会で、子どもの頃の思い出として一番心に残っているのは、誕生日のプレゼントや、レストランでの豪華なご馳走、テーマパークで過ごしたのでもなく、あるとき母親と二人でした粘土遊びだと発言された方がおられました。なにげない日常生活の一コマが鮮明に思い出されるそうです。母子でゆっくり楽しんで過ごしたからこそ、と考えました。

七夕飾りを家族で楽しむ様子を想像しますと、微笑ましくなります。子どもの楽しい思い出の一つになることは間違いないでしょう。                                    来年も笹を用意したいと思っています。どうぞご利用ください。


一緒に子育て1

私が子どもの頃、すなわち昭和の2,30年代の頃ですが、「親はなくても子は育つ」と、周りの大人がよく言っていたのを思い出します。何でそんなことを言っていたのかは覚えていませんですが、改めて広辞苑を引いてみますと、言葉通りの意味として載っています。              子どもの育ちには、親だけでなく、いろいろな人たち(祖父母、親戚、近所の人たち等々)が関わっていたのでしょうか。そういえば、近所づきあい、親戚宅訪問、来訪(それも泊まりがけで)がよくありました。すなわち、頻繁な、濃密な人間関係が大人にも子どもにもありました。  「昔がよかった」式の非生産的なことをいっても始まりません。しかし、これに変わる人間関係が必要なことはいうまでもありません。どんな形にしろ、孤独の子育ては、親にも子どもにも疲れることです。

 

 

 

 


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